東大寺通し矢絵巻

  

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 挙母藩弓術家安藤早太郎が、奈良東大寺大仏殿回廊の通し矢を行った時の絵巻。
この奈良東大寺大仏殿通し矢は、回廊の軒下、長さ99メートルを、夕刻から翌日の夕刻までの一昼夜で通した矢数を競うものです。
天保十三年(1842)四月二一日、総矢数11500本中、8685本(到達率75,5%)の通し矢に成功した記録を残しています。
一般には、京都の「三十三間堂」の通し矢がよく知られています。 この「三十三間堂」の通し矢の起源は天正年中の今熊野猪之助からで、この堂射で堂前の大射者と言われた人は26人。 この中に紀州藩日置流竹林派の和佐大八郎は、紀州候の命令で貞亨三年(1686)に行い、日本一となりました。 しかし、記録は空前のものであったとかで、その後は、京都での通し矢はパッタリと止んでしまったとの事です。
京都の「三十三間堂」の通し矢に比べ、早太郎の行った奈良東大寺大仏殿通し矢の方が、 はるかに条件が厳しく、早太郎の記録は古今第一の弓取りであると、尾張藩儒官秦世寿が譛文を残しています。

 絵は彩色された大絵巻で、満開の桜・大きな篝火・通し矢を行う安藤早太郎・判定をする堂見役・通し矢を見に来た見物人・物売り等の姿がいきいきと描き出されています。 早太郎は回廊の北端で立膝姿で弓を引き絞っています。 一昼夜で一万本以上射るには、一分間に十〜十二射射る事になる為に一本の矢が的に当たる頃には、次の矢が弦を離れており、三本目の矢が弦にかかっているという速射だったことがわかります。

  

安藤早太郎の行った「東大寺通し矢絵巻」は、現在松波佐平弓具店に保管されています。

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